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■追記−−自分の麻雀を語る難しさ

 今回はかなり厳しい内容を書いてきました。じつは対局したあとで岸本プロから「理解不能といわれるのはぼくにとっては最大の賛辞ですし、できるだけ厳しく書いてください」といわれたのです。麻雀を打つことに懸けている者としては、自分の麻雀をこと細かく分析されるのは願っても得られない機会だということでしょう。

 そこでぼくは思ったことを率直に書いて、そのあとで岸本プロ自身にコメントを書き加えてもらう約束をしました。そうすれば厳しいことを書こうとも一方的にはなりませんし、また内容も深くなると思ったわけです。彼が加えるコメントはぼくの見当外れを指摘するものかもしれませんし、どうなるのか予想もつきませんでした。

 しかしその約束は果たされなかったのです。というのは岸本プロがコメントを書けなくなってしまったのですね。麻雀に打ち込んでいればいるほど麻雀を語ることは難しくなってしまうもので、試行錯誤のなかで理論的モデルを組み立てようとしている岸本プロは(いかに頭でっかち系といえども)回答不能に陥りやすいと思います。それは当事者にとってあまりに重いテーマなので手をつけられないということかもしれませんし、あるいは理論モデルがいま揺れ動いており語れないということかもしれません。

 そもそも当事者に解説してもらうこと自体に多少の無理があるのは事実です。麻雀のプロを志そうとしたら、それは打ち筋のなかに表現すべきものであって、解説するのは別の人の役目であるのかもしれません。少なくとも将棋や囲碁の世界ではそうなっています。けれども麻雀は解説の土壌が弱いジャンルですから、解説まですることがプロの役割だということもできるでしょう。ここらへんは考え方の問題です。

 ぼくは岸本プロの麻雀に、精神性を廃した工学的な麻雀というだけでなく、100円ショップとブランド品がどちらも大売れしている二極化した社会の動きまで感じてしまいます(つまり100円ショップ的な麻雀ということですね)。こういった理解がそれなりに的を射ているのか、それともぼくが勝手に現実を投影しているだけなのか、岸本プロがもう一度プロ対戦に登場することがあったなら、ふたたび考えてみたいと思っています。


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